ストーリーテラー

2025年2月20日
活動ブログ

2月の社内研修は、同じ街のかかりつけ医「たくま医院」院長、詫摩 和彦先生。



先生の活動テーマ「看取り」それは何か?どう考えるか?を丁寧に教えて頂く。



僕もよく「その人らしく」という言葉を使うのだが、今夜の先生のお話をお聞きして、この歳になっての反省、この歳になったから共感、その両方があった。



この仕事は、直接的にも間接的にも人の死に関わることが少なくない。先生は「まぁしょっちゅうじゃなくていいけど、たまに『死』は考えてみなさいよ。」という言葉を我々に投げかける。




一応、理学療法士を名乗って30年ぐらい。若い時、専門職未成年の頃は病気や障害をジャッジすることが専門家の当然の使命と考えていた。専門職である以上、基準に従い、危険を察知し、未然に防ぐ。異常だと判断すれば正常化するための手段を最優先に、指示を守り、ルールに則り、チームと協力しながらリハビリが提供できる、それが専門職だと。それは今もそうだと思っている。




ただ、在宅の世界に来てからまぁまぁ時間が経った。52歳となって「死」を考えてみなさいよと問われれると、明らかに専門職未成年時代よりもその回数は多くなった。



在宅という世界で仕事をする時、ジャッジはジャッジでもちろん必要なのだが、ジャッジの基礎資料には「環境」や「人生」や「欲」や「世間の目」なんてのが大きく関わってくる。



これが在宅の少々面倒なところで、どうにもこうにも国家試験的知識だけでは「解」が出せない問題と直面することがしばしばしある。



そんな場面を経験してきた結果、今、どう考えているかと言えばこうだ。



杓子定規の善し悪しは勿論重要だ、という前提で、たとえばの場面でその人の環境なり人生なり欲なり世間の目なりにも多少は配慮する。相手から「お前うるさいな、ほっとけ、余計なお世話だ」ぐらい言われても、それなりに知ってみようと穏やかに努めてみる。で、相手を完全に理解はできなくてもいい。薄っぺらく知ったコトだけでも、とりあえずその人の代わりに本人のストーリーテラーになって当事者と話してみる。そうすると、ふと本人が元気になるということはよくあった様に思う。



若い頃、専門職未成年の時はわからなかったが、52歳のおっさんになり知恵も体力も衰えはじめて理解出来たこと。



おじさんぽいと捉えられることを恐れず言えば、今夜の話は、在宅の専門職ってのは「人の人生を理解するのだ」という命題の下に、時に専門職であることを少し緩く、時に専門職であることを少し割り引いて考えるということができる専門職なんだよ、という話だったと僕は理解したい。



今日の先生の話に盛り込まれた、漫画や映画や往年のテレビ番組と、それまつわる様々な文化と「シャボン玉ホリデー」は、そういうことだと理解したい。



その人をらしくある、を想像してみよう。

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