リハビリを創る。2025年4月27日活動ブログ 寝ているところから、起きて座って立ち上る、歩き始められれば後はどれだけ上手く歩かせられるか。上手く動いてもらう、歩いてもらう、というのは色々と見立が重要で、単に機能があればという話にならないのが難しい。そういうリハビリをやっておる者です、私は理学療法士ですと名乗り続けて気づけばもう30年。一般的にリハビリは「病院」で働くが業界の8割、一方でリエゾンのそれは「在宅」や「地域」に分類され全体の2割程度ながら、今それが徐々に増えつつある。30年前の在宅や地域のリハビリには基準や手本は何も無く、理想はあったが、その活動手段といえば酒を酌み交わすぞという世界観だった。30年前は誰も何も教えてくれん。Yahoo!もSNSもAIも無いから本で調べて描く、やってみたら失敗する、だから、また本で調べて、描いて、やってみたらまた失敗、その連続。だから腹を括った、正解が無いのだから「これが、ここでのリハビリだ」と信じて自信をもって失敗を繰り返そうと。そうやって失敗のたびに色々考えて、それなりに30年やってきた(つもり)。で、そんな世界へたまに実習生が来る。学校からは、あんたの自由に教えてくれてOKだと言われているので来れば都度歓迎する、ちょうど今、その真っ只中。彼らは、課題を消化しつつ、対象を色々と考えながら2ヶ月、リエゾンで在宅や地域のリハビリを学んでる。その姿を見たからという訳ではないが、今々改めて、可能な範囲で現場を歩けば、リハビリがあればと思う場面が多くある。ただ、昭和と令和とじゃ環境が全然違う、社会においてリハビリのニーズが30年前と同じなはずがない。ゆえに考えも方法も進化してて当然と思うのだが、昭和のおっさんは、今、世間で「リハビリ」ってどの程度の価値なんかいな、と余計なことを考えてしまう。(感覚的経験値的に)お客さんの集団状態は周期的に変動し、在宅や地域でのリハビリのマクロのニーズもそれに呼応して上下動する(様な気がする)。地域包括ケアシステムでは、リハビリがそのニーズの中心に置かれることは少ないと思うが、その一方で、ユーザーというより関係者の中で「やっぱリハビリ要るよね」的な意識が現場に影響し、需要が周期的に上下動することはある(と思う)。現場を回るとぼちぼちそんなタイミングの様な気配を感じる(肌感)。ここはブログ、独り言の範囲であるのでこれ以上の分析は次回の社内研修等の折としたい。さて、聞けば実習生の父は同い年らしい。親子ほど世代の異なる若者の傍に立って、お客さんのリハビリを一緒に考えてみた。お客さんは、痛い・きつい・動けないといい、実習生は緊張したまま自分の考えはこうです・ああですと話す、そして、昭和のおっさんは、じゃあこう考えては、そうやってみればとお節介を言う。実習は楽しくあっていい、その上で、若者の学びに便乗し、昭和のおっさんも自分がどうしたいのか、その自問自答に実習の場面を利用する、それは、互いの将来のためだ。リハビリ業界の数々の研究や臨床の功績、先人の偉業には最大限の敬意を表す、なので、以下は自分自身への問いであるとご理解いただきたい。自分のリハビリが30年前の価値観のままで取り残され、勘違いをし、社会に迷惑をかけてないか?若者がリハビリを目指す時に、夢や未来を感じれる何かを創れているか?リハビリに確かな実力ある者や、研修や研究など学びに努力する者が、その経験や努力を活かせる環境を創れているか(豊かさにもつながっているか)?令和の世で、納得し満足できるリハビリの世界観を創れているか?理学療法士を名乗り続けた昭和のおっさんは、同業を目指す親子ほど歳の離れた実習生に「これからはこれだ」と自信を持って示せる何かが創れているか?このクソ忙しい最中に、また、し残したことに気づいてしまう。足腰がまだ使えるうちに、どげんかせんといかん。最後にもういっちょ、リハビリを創らんといかん。 投稿ナビゲーション << 前の記事次の記事 >>